凡そ文学的内容の形式は(Ff)なることを要す。Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象又は観念の二方面即ち認識的要素()と情緒的要素()との結合を示したるものと云ひ得べし。(夏目金之助『文学論』冒頭)

 

 「ユダヤ人を嫌う」とか、「トルコ人を嫌う」といった還元論や決定論は、意味の多層性を閉ざし、個別的な存在や経験を捨て去る。それは、一対一でしか言葉の意味が生起せず、固定化された状態だ。しかし、『文学論』の中で示された「(F+f)」という公式は、「ラーメンのにおい」を媒介として思い出す具体的な「日本人」の印象から、「日本人」という抽象的な観念まで、数え切れないほどの範囲で揺れ動く。それに伴う「情緒」も、愛着や嫌悪など幅広く動き続ける(確かに語り手は脳を素手で触られたような驚愕を感じている)。この揺れがなくなったとき、言葉は余地を持たなくなる。余地を失った先にあるのは、ファシズムや排外主義や他者の領有だということは、この百年の歴史が教えてくれるだろう。